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「蒔かぬ種は生えない」

 

 1月の感謝会おめでとうございます。

 最近、改めて、自分の心の中に、神仏の教えや宇宙の法則が少しでも入っているということは、本当にありがたいことと思います。


 もし「神仏の教え」のような心の軸がなく、自分の考えや気持ちだけを中心にして生きてきたら、順調な時はいいかもしれませんが、何か不都合に出合ったときは、ネガティブな気持ちだけに押し流されて、本来あるべき道から遠く離れて、行きっぱなしになっちゃうんじゃなかろうかと思います。

 そうした意味で、こうして定期的に神仏に向き合い感謝して、惟神の大道のもとに心を調えていけることは、改めて大きな価値のあることだなーと思います。


 というのは最近、不都合なことに出合って、改めて因縁因果の法則について思いを巡らせながら、やはり「いい種を蒔く生き方を心がけたいな」と、教えに立ち返って自分を取り戻し、改めて前向きな気持ちなる爽やかな体験をしましたので、今日は、その「蒔かぬ種は生えない」という教えについて、お話ししたいと思います。


 最近、不都合なことに出合ったというのは、この前の火曜日、お財布を無くしてしまったんです。


 月曜日、この教会にロサンゼルスの会員さんが参拝に来られました。その日は一緒に食事をして、翌火曜日は教会も休みでしたので、半日、車で島を案内させていただきました。

ヌアヌパリ、カネオヘ・ホオマルヒア植物園、ワイマナロビーチを案内する中で、私は、ジーンズの後ろポケットに入れていた財布がなくなっていることに気づきました。


 財布の中には、運転免許証、クレジットカード、現金、名刺などが入っており、特にソーシャルセキュリティー番号のメモが入っておりましたので、心配しました。

 「どこで落としたのか?」——、最後に財布に触った記憶があったのは前日に行ったレストランでしたので、早速そこに電話しましたが、「落とし物はない」とのことでした。

 そこで、カード会社に電話して、クレジットカードを閉め、翌日はシティサテライトに行き、運転免許証の再発行の手続きをしました。


 解脱金剛さまは、「蒔かぬ種は生えないんだよ。その種をいかに浄化するかが精進なんだよ」とおっしゃいました。

 「蒔かぬ種は生えぬ」とは、お釈迦さまの因果応報の教えです。

 つまり、「芽生えた結果は、先にそのような結果になるにふさわしい種が蒔かれたからだ」という意味です。


 でも、私は少し戸惑いました。私は人の物を盗んではいないし、人や何かに対する悪念を抱いていた覚えもないし。お金ごと財布が取り上げられるに見合った、悪い種は蒔いてないはずだと、最初は思いました。これは単なる私の不注意か事故なんだと。

 でも単なる不注意や事故にせよ、どうしてそのような不注意や事故が生じたのか、ということを考えてみれば、やはりそのような結果にふさわしい種が蒔かれていたのだと、考えざるを得ませんでした。


 そこで私は、どんな種を蒔いたのか、最近の私の心情を冷静に振り返ってみました。

自分の心を振り返ってみれば、褒められたものではありません。

 仕事にしても、いかにしてサボるか、手を抜くか、できるだけ楽しようということばかりを考えてきて、これじゃぁ給料泥棒だと、思えないわけでもありません。少しぐらい取り上げられても文句を言えた義理ではないかもしれないと、いろいろ気づくところもありました。


 そんな中、大きなことに気づけたんです。

 それは、「蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は生える」という法則を知りながら、私はろくな種しか蒔いていなかった。いい種を蒔くこともせず、そのように、「精進する」という意識すら消えていた、ということに気づきました。


 金剛さまは、「蒔かぬ種は生えないんだよ。その種をいかに浄化するかが精進なんだよ」とおっしゃいました。私は、「ああ。いい種を蒔く生き方をしたいな」と、心の底から思いました。


 業(カルマ)とは、心に思ったり、口に出したり、身体で行なったりする「行為」のことですが、お釈迦さまは、その「身口意の行ない(業)の種が、縁にふれ、果となる」と教えられました。


 この因果の法則は、キリスト教でも「自ら蒔いた種は自ら刈り取らねばならない」とか、「与えたものが返ってくる」とか、教えられています。

 この因果の法則を知ることは、より良く、より幸せに生きるために、とても有益です。なぜなら、より良く生きるためには、悪い種を蒔かない、良い種を蒔く、ということを心がけることができるからです。


 因果の法則を知らず、「蒔いた種は生える」という思考ができないと、何かあれば、人や社会のせいにして恨んだり不平に思ったりして、また心に悪い種を蒔く。また、誰も見てなければ、善いことはしない。ごまかすことも平気になる。


 誰が見ていようが見ていまいが、「蒔いた種は生える」のが、この宇宙の法則なのです。 ほんの些細な善行でも、縁にふれて、善果となる。それが積み重なれば徳となり、巡りも良くなり運勢も開かれていくわけです。


 私は、この法則を知りながらも、いい種を蒔くこともせず、精進していこうという意識すら忘れていた、ということに気づかされたんです。

 この基本的なことに気づかされ、有り難かったなと。財布が紛失したのも、そこに気づかせてくださる神仏からの有難いご注意だったんだなと思い、「これからは些細なことでも、少しでもいい種を蒔かせてもらいたい。そうした生き方をしていきたい」と思いました。そのように、前向きな姿勢に再びなれたことがとても嬉しく感じました。


 そして、そのような心境になった途端、様々なご縁が開けてきました。

 まず、お世話したロサンゼルスの会員さんから、「ホテルに冬服を忘れたので取りに行ってくれ」との電話がありました。

 私は咄嗟に、人から何か頼まれごとがあったときとか、誰かのお世話をしなければならないときなどには、たとえ面倒くさいことでも、むしろ、人助けの善い種を蒔くチャンスだと思いました。それで、喜んでその人の助けにならせていただくことができました。


 また、翌日には、突然ガーデナーの何人かが来て、教会のスプリンクラーの水漏れしているところを見ていましたので、いろいろと話したら、社長も来てくれて、結果として、壊れていたスプリンクラー二十数か所を割安で修理してくれました。スプリンクラーの故障は長年、私にとっては、放っておくにも罪悪感を覚える懸案だったので、本当に有り難く思いました。

 その後、カネオヘのホオマルヒア植物園から教会に電話があって、私の財布が無事出てきたのです。


 曲がりなりにも自分の心の中に神仏の教え、因果の法則が少しでも入っていて良かったなと。もし私にそのような心の軸がなく、自分の感情だけを中心にしていたら、ネガティブな感情に流されるだけで、本来あるべき道から離れて行ってしまっただろうと思います。

 本日は「蒔かぬ種は生えぬ」という因果の法則についてお話ししましたが、お互い改めてまして、惟神の大道に沿って生きる有難さを自覚し感謝させていただきましょう。

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